木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)





 木下長嘯子は、永禄十二(一五六九)年に尾張に生まれる。戦国時代末期の武将である。
 長嘯子という名は隠栖後の号であり、本名は木下勝俊。父木下家定は、豊臣秀吉の正室、北の政所ねねの兄であり、勝俊は秀吉の義甥にあたる。北政所ねねの近くで育ち、秀吉の近臣としても厚遇された。
 戦国時代末、織田・豊臣時代を秀吉の側近くで過ごし、秀吉亡き後は、ねねの庇護のもと家康にも仕えた。


 天正十五(一五八七)年、十九歳で播磨の竜野城主となり、従四位侍従に昇進した。秀吉に従い、九州征伐に従軍している。
 このころ既に勝俊は武将としてよりも、文人として短歌に執心していたようであり、秀吉もまた、甥の歌人的な才能を認めていたようである。

 天正十八(一五九〇)年二十二歳の時には、小田原征伐に従軍し、紀行文「あづまのみちの記」(『挙白集』巻八)を残している。
 文禄元(一五九二)年、二十四歳頃に、勝俊は若狭国小浜城主となる。
 名護屋の陣に出向くその途中の紀行文が、「九州のみちの記」である。これも前の「あづまのみちの記」同様に、戦、将兵については一切触れず、従軍のかげさえ見えない。たんなる歌人の紀行としてのみ綴られている雅文である。

 慶長三(一五九八)年、勝俊三十歳の八月十八日に、秀吉が逝去する(『挙白集』巻六「さか衣」)。
 二年後には関ヶ原の合戦が起こる。天下分け目の合戦は、勝俊の転機にもなる。

 慶長五(一六〇〇)年六月。家康は会津上杉景勝を討つために、伏見城から江戸に向かう。
 このとき勝俊は、家康不在の伏見城の松の丸を守っていたが、三成の軍に実弟小早川秀秋が居たために、大将鳥居元忠から退去を命じられる。再三の通告が続いた末、勝俊は最終的には城を出て、叔母北政所のもとに身を寄せる。
 九月十五日。勝俊は伏見城退却、舞鶴城攻撃の、進退をわきまえぬ挙止を家康に咎められ、若狭小浜六万二千石の領地を没収された。


 領地を没収された勝俊は北政所に、家康の怒りが解けるまで、遁世したいと申し出る。
 慶長六(一六〇一)年。勝俊は、以前から求めていた東山の霊山の麓に、かなり広い土地を北政所から譲り受け、かつての大名にふさわしい隠栖所をしつらえ、妻子をそこに呼び寄せた。
 隠栖した木下勝俊は、長嘯子と号した。
 鴨長明に憧れ、しばしば「方丈記」をひもといていた長嘯子は、洛外の日野外山の庵跡を訪ねてもいるが、長明のような篤い信仰心や求道心は持っていなかった。
 霊山の麓の隠栖所も、長明のような詫び住いとは随分と様相を異にしていた。長嘯子はその住まいを「挙白堂」と名付け、「山家記」に、そこでの生活の一端を記している。
 それは、京の街からさほど遠くもなく、北政所ねねから借りた広大な敷地に種々な調度品を設えた立派な構えのものであり、侘び住まいというよりは、華やかな閑居と言える。そこで長嘯子は、日々和歌を作り、歌会を催す生活を送るようになる。


 霊山に隠栖して八年目の慶長十三(一六〇八)年八月二十六日。長嘯子の父木下家定は六十六歳で、備中の城で亡くなった。北政所にとっては兄であり、実家の嫡子である。長嘯子は四十歳になっていた。

 家定の死去によって、北政所がしばしば家康に懇請していた長嘯子の大名復帰が、実現することになる。
 家康は勝俊、利房兄弟の咎を許し、父家定の領地二万五千石を与えると下知し、勝俊には北政所の昵懇衆の役目も申し渡した。
 このとき、勝俊の兄弟のうち三男延俊は幽斎の娘を妻にし、関ヶ原で戦功を立て、豊後国日出城主となっていた。四男俊定は小出大和守の養子となったが死没し、五男小早川秀秋も慶長七(一六〇二)年に死去していた。

 翌慶長十四(一六〇九)年。大名復帰を長い間待っていた北政所は、木下家の嫡男であり、かねてから目をかけていた勝俊に、家定の領地の全部を独断で与えるように取りはからってしまった。
 勝俊は辞退すべきであったこの北政所の独断を受ける。
 北政所の処置ではあったが、家康の命と相違している事が、処置に不満をもった弟利房と家臣によって家康の耳に入り、勝俊は再び領地を没収された。


五年後の慶長十九(一六一三)年に大坂冬の陣が起こる。
 弟利房は家康に従い大坂城をせめて戦功をあげた。その為、戦後備中国足守城主として二万五千石を拝領し、利房は大名として返り咲いた。
 一方の長嘯子は終始傍観的であり、秀頼母子と敵対することもなく、まったく動くことはなかった。世捨て人として、豊臣家滅亡をよそに、ひたすら北政所に奉仕していた。


 寛政元(一六二五)年九月六日、北政所は七十六歳で他界した。秀吉の没後二十六年、大坂城落城から十年目である。高台寺裏山に葬られた。
 寛永十七(一六四〇)年十二月。七十二歳の長嘯子は、四十年住み慣れた霊山の隠栖所を引き払う。
 山荘が維持できなくなり、妻に先立たれたこともあって、より閑静な地に移ることになる。
 小塩山麓の勝持寺の住職を頼り、境内の裏に庵をつくった。かつて西行法師も寺の境内に結庵したことがあるとはいえ、めったに京から足を運ぶことのない山里である。


 小塩山に移って十年。慶安二(一六四九)年六月十五日世を去った。八十一歳。法名は「大成院殿前四品羽林天哉長嘯居士」。墓は現在、高台寺内、歴代住職の墓所に並んでいる。

 長嘯子は生前自ら歌集を編まなかった。長嘯子の歌集で一番多く歌数を含む『挙白集』は、弟子の公軌が収集し、公軌亡き後は、公軌男景軌と、春正が編集して、慶安二年春正の跋文を附して刊行された。

 その後慶安三年に、『難挙白集』という論難書が尋旧坊という匿名の名で出され、さらに匿名の名で『挙白心評』が出される(『難々挙白集』と俗称される)。


 戦国時代から江戸時代にかけて生きた長嘯子を、武将とは呼びがたい人物だと思ったものの、歌で身を立てた歌人であるとも思えなかった。近世文学で初めに頭に描いた人物は芭蕉であり、俳諧を確立させた人物として記憶している。もう少し遡って貞徳という事を考えても、長嘯子の名は出てこなかったが、長嘯子の一生には、貞徳が多く関係している。貞徳の師である幽斎にも師事している。

 型破りとも思える和歌を詠み、またそれが許される育ちであった長嘯子は、後に芭蕉の俳句へ影響を与える。
 和歌から俳諧への繋がりを見る上で、注目するべき人物だと思われる。








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